埼玉県在住の倉本知眞さんは音楽大学に通う21歳です。1歳の時に「退形成性上衣腫」という脳腫瘍を発症。その治療による合併症で脳機能にも障がいが生じました。中学生で耳がまったく聞こえなくなったため、右耳に人工内耳を入れています。
様々な症状に見舞われながら、決して手放さなかったもの。それは脳機能のリハビリのため、3歳の時、お母さんが教え始めたピアノです。耳のハンデや知的障がいもあるため、1曲をマスターするのに時間がかかりますが、「ピアノだけは続けたいと言って何時間も練習していました」とお母さん。努力のかいがあって音楽大学にも合格します。「がんばってきたピアノを、大勢の前で披露する場を作ってあげたい」と、お母さんがCaNoWに応募してくださいました。
■ 医療的ケア児への支援を行う「特定非営利活動法人AYA」とのコラボレーション
そんな折、特定非営利活動法人AYAの代表者で医師の中川悠樹先生から、「CaNoWとコラボすることで、患者さんに経験を届けられないでしょうか」との依頼が舞い込みます。AYAは、病気や障がいのある子どもたちがスポーツや芸術、文化を体験できるイベントを企画・実施している団体です。医療者が同行するなど医療的なサポートを行い、安心して外出できる機会を提供しています。
今回は、AYAの音楽イベントとCaNoWが合同し、その中で倉本さんにピアノを演奏してもらうことで話がまとまりました。コンサート名は「 AYAインクルーシブ 音楽フェスティバル in 横浜」。この日のために倉本さんは練習に励み、他の演者たちとスタジオで二度の事前リハーサルも行って、本番に備えてきました。
■ 楽しさ満点、マラカス作りのワークショップ
コンサート開催当日の朝。神奈川県横浜市にある音楽ホール「はまぎんホール ヴィアマーレ」に、倉本さん親子が到着しました。
本番直前のリハーサルでは、プロの演者たちとの音合わせや、進行、立ち位置や動きなどを入念に確認。その様子をお母さんが見守ります。
開演前、ホールのロビーでは、コンサートで使うペットボトルマラカス作りのワークショップが開かれました。観客として来場した子どもたちが楽しそうにマラカス作りにトライ。好きな色のビーズをスプーンですくって、ボトルに入れます。
リハーサルを終えた倉本さんもワークショップに参加し、真剣な表情でマイ・マラカスを完成させました。
■ 車いすやストレッチャーの子も続々と来場
ついにコンサートが始まりました。お客さんのほとんどは、病気や障がいのある子どもや、医療的ケアが必要な子どもと、そのご家族。車いすやバギー、ストレッチャーを使う子どもも、次々と来場してきます。
コンサートは3部構成で、第1部のテーマは「童謡・手遊び」。子どもたちに大人気の「ぼよよん行進曲」で、元気いっぱいに幕を開けました。会場からはさっそく手拍子がわき起こります。演奏するのは「AYAドリームアンサンブル」の皆さん。この日のために結成された、ボーカル、チェロ、ピアノ、パーカッション奏者の4人組です。
「おもちゃのチャチャチャ」では、お客さんもワークショップで作ったマラカスや手拍子を鳴らし、賑やかに! その後も次々と、おなじみの曲が飛び出します。
音楽に合わせて体を揺らす子、ジャンプする子、駆け回る子、声をあげる子……みんな自分のペースで楽しんでいます。普通なら静かに座って鑑賞することが求められるけれど、ここでは「何でもあり」。すべての子どもが尊重され、受け入れられるインクルーシブな空間です。
司会も務めるパーカッション奏者の二見智祥さんからは、演奏の合間に、子どもたちに配慮するこんな言葉がさり気なくかけられます。
「暑かったら近くのスタッフまで言ってください」
「席の移動も自由。前と後ろでは聞こえ方が違うので、自由に動き回って」
第1部を締めくくったのは「ともだち賛歌」。「病気や障がいの有無に関係なく、みんな一緒に楽しもう」という主催者の温かいメッセージが込められているようでした。
■ 涙を流す人も……。演奏を終えると、盛大な拍手が送られた
AYAドリームアンサンブルのメンバーがステージから姿を消し、いよいよ倉本さんが演奏を披露する第2部がスタートです。
「ピアノ独奏をしてくださいます倉本知眞さんです、拍手でお迎えください」
二見さんからこう紹介を受け、黒のスーツに蝶ネクタイでシックにきめた倉本さんが登場しました。
演奏するのはドビュッシーの「版画」より第3曲「雨の庭」と、ショパンのバラード第1番ト短調作品23。倉本さん自ら曲名を紹介し、演奏がスタートしました。
指先が繊細な音色を紡いだと思えば、力強く鍵盤を走らせ、聞く人をクラシック音楽の世界へと引き込みます。つらい時も嬉しい時も、ピアノとともに歩んできた人生。そのことが伝わってくるような迫力ある演奏に、心が揺さぶられます。
演奏後、二見さんから練習期間を尋ねられると、「ドビュッシーに関しては、半年ぐらいの間練習をしてきました。ショパンの方は、1年半ぐらいになります」(倉本さん)
客席には感動の涙を流す人の姿もありました。病気を持ちながら、人一倍の努力でピアノと向き合う倉本さんに、わが子を重ね合わせているのかもしれません。大勢のお客さんを前に、堂々たる演奏を披露した倉本さんに、惜しみない拍手が送られました。
■ 倉本さんのピアノと、AYA代表・中川先生のサックスの共演
15分間の休憩後、再びAYAドリームアンサンブルが登場。「ボピュラーソング」がテーマの第3部がスタートしました。
「夢をかなえてドラえもん」では、ボーカルの「どこでもドアー!」「タケコプター!」に合わせ、マラカスを高く掲げる子も。かと思えば、大人の心にもしみ入る「糸」など、家族みんなで楽しめるラインナップとなっていました。
最後の「ツバメ」では、再び倉本さんが演奏に参加します。なんとシークレットゲストとして、AYAの中川先生も登場。サックスを披露して会場をわかせました。
アンコールでも倉本さんが加わり、「となりのトトロ」を演奏。会場のお客さんも一緒に歌い、大いに盛り上がった一日でした。
■ 「人生、何もがんばらないのはもったいない」
コンサート終了後、楽屋には倉本さんとお母さんの晴れやかな笑顔がありました。「音楽の力で感動を与えたい」を目標に、この日のために練習を重ねた倉本さん。その笑顔が、「やりきった」達成感を物語っています。
コンサート直後の興奮冷めやらぬ中、CaNoWでは倉本さんにインタビューを行いました。
───今日は演奏してみていかがでしたか?
自分としても、いい演奏になりましたし、思い出にもなったので、よい機会だったと思います。あまり緊張はしなかったです。全部うまくいったのでよかったですね。ドビュッシーが、一番うまくいったかな。
───点数をつけるなら何点でしょう?
80点ぐらいです。
───人工内耳の患者会の人も来てくれたそうですね。ご家族や知人だけでなく、色んな人に演奏を聞いてもらった感想をお聞かせください。
学校の試験以外で、なかなかそうした機会はないので、これも一つの経験になるのかなと。患者会の人たちにも、ピアノが少しずつ上手になったのを見せられたのが、よかったかなと思います。
───ピアノを演奏したり聞いたりすることの、どういうところが好きですか?
演奏して、自分にちょっと自信を持てるところか、他の人に少しでも喜んでもらえるところです。素晴らしい演奏を聞けると感動します。
───耳が聞こえなかった時期もありながら、ピアノの練習をずっと続けてこられたのはなぜでしょう。
高校1年生ぐらいの時に、まわりと勉強の差があったので「もう何もしたくない」と思ったのですけれど、ピアノなら他の人よりもできる方でした。「やっぱり人生で何もがんばらないのはもったいないかな、ピアノだけは続けようかな」と思い、音大も目指しました。
───倉本さんと同じように、病気と闘っている子どもたちにメッセージをお願いします。
病気のことでショックを受ける時もあるかもしれません。でも、そこで一人で悩まずに、せめて誰か一人でも意見を聞いて、人生やっていった方がいいかなって思います。